吹田の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

大阪府吹田市歴史探訪
吹田市の概要
吹田市は大阪府の北部に位置し、南は大阪市、西は豊中市、北は箕面市、東は茨木市及び摂津市に隣接しています。市域内やその周辺には名神高速道路、中国自動車道、近畿自動車道、新大阪駅、大阪国際空港などの国土軸交通幹線や施設が配置され、大阪市の都心部へ10キロ圏にあるなど、至便な交通条件にあります。地勢としては、市域北部は樹枝状浸触谷の発達したなだらかな丘陵となっており、南部は神崎川や淀川による沖積低地により形成されています。昭和45年(1970年)に万国博覧会が開催され、多くの観光客で賑わいました。また、Jリーグのガンバ大阪のホームタウンとして有名です。

吹田のあゆみ
吹田市域の北側は、なだらかな千里丘陵で占められ、南側は淀川・安威川・神崎川と千里丘陵を源流とする川から運ばれた堆積物で作られた平地になっています。地質は、北部の千里丘陵の大阪層群(千里山累層)の古期洪積層と、南部の安威川・神崎川沿岸低地の沖積層の2つから構成されています。北部の洪積層は、約200万年前〜1万年前に土砂が堆積し安定した地層で、南部の沖積層は、約1万年前以降にできた比較的新しい地層となっています。かつては海がすぐそばまで迫っており、海運などの交通の要衝となっていました。

旧石器時代の石器が、市内で発掘されており、このころから人が住んでいたと考えられています。 延暦4年(785年)、和気清麻呂により、神崎川と淀川を直結させる工事が行われ、西国から船で大阪湾・神崎川を通り京都へ向かう河港として発達しました。もともと西国街道・亀岡街道なども通っており、陸路・水路ともに西国と京都を結ぶ交通の要衝として発達していました。

応仁の乱以降の戦国時代の戦火で、吹田地区のおもな神社・寺院が焼失し、町屋にも大きな被害が出ました。そんな中、応仁の乱の戦火により焼失していた「吉志部(きしべ)神社」が、朝鮮半島から渡来してきた吉志一族の子孫により、慶長15年(1610年)に再建されました。宝永3年(1706年)には吹田村の一部が幕府直轄地の天領から仙洞御料(上皇の領地)となり、この仙洞御料時代の壮大な庄屋が明治時代に改修され、西尾邸(現在の吹田市本町)として残っています。吹田村の他の地域は、旗本(柘植氏・竹中氏)の領地に細分され、吹田市域の他の村も、天領・高槻藩・淀藩・旗本領などが複雑に入り組んだ「入組支配」が行われることになりました。

明治41年(1908年)に、吹田村は吹田町となり、昭和15年(1940年)に4町村(三島郡吹田町・千里村・岸部村・豊能郡豊津村)が合併し、吹田市が誕生しました。その後も合併を繰り返し、昭和30年(1955年)に山田村と合併し現在の市域となりました。

昭和45年(1970年)に、吹田市で万国博覧会が開催され、6421万人の入場者を記録し、吹田市の存在を大きくアピールしました。また、千里二ュータウンと万博公園内の諸施設が完成し、昭和54年(1979年)には、JR吹田駅前再開発事業が完成するなど、積極的なまちづくりを推進していきました。

現在では、地域の特性を活かした都市景観、快適な都市環境の創造のため都市景観形成基本計画の見直しを行い、都市景観要綱の条例化に取り組んでいます。また、大規模開発事業については、「開発事業の手続き等に関する条例(愛称:好いたすまいる条例)」に基づき、住環境の向上をめざすとともに、良好な近隣関係や周辺環境と調和した土地利用の誘導を図っています。


吹田の名前の由来
三島地方には渡来氏族が多く、定着して集落をなしていました。彼らの村(スキ:三韓の言葉)に属する田「スキ田」が「鋤田」や「次田」などと書かれる様になり、音便の転化と、「次」と「吹」の草書体が似ていたことから、吹田(すいた)となったと言われています。


吹田の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
吹田市立博物館
住所: 〒564-0001
大阪府吹田市岸部北4丁目10-1 [地図を見る]
電話番号: 06-6338-5500
開館時間: 9:30〜17:00
休館日: 月曜日、祝祭日の翌日、年末年始
入館料: 大人200円、高校生・大学生100円、小学生・中学生50円
※第2・4土曜日は小学生・中学生無料。
※20名以上は団体割引あり。







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